滋賀の伝統訪問【滋賀のデザイン会社:スタッフ日記6.14】
藤三郎紐さんは慶応3年(1867年)創業以来、130年余りにわたって組紐製作に携わってこられた老舗。
初代が東海道の逢坂山(おうさかやま:滋賀県と京都府の境)の関所跡付近に米屋を開き、その傍らで
印籠の紐や組紐の雑貨を置いて峠を行き交う人たちに売り出したのが始まりだとか。大津宿では長旅の
疲れを癒した旅人が身繕いするために下げ緒を新調することも多かったといいます。
下げ緒とは刀のさやに装着する紐のことで、鞘が帯から抜け落ちないように、また不意に差している刀を
奪われないようにするために使われました。
三代目が組紐の素材である絹糸の草木染めに着手、現在その技術が四代目へと受け継がれ、
主に帯締めを中心に製作されています。昭和40年代には34社ありましたが、
現在では藤三郎紐さんだけとなってしまったそうです。
逢坂の関は「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」百人一首、蝉丸が詠んだ和歌で有名です。鉄道が引かれるまでびわ湖は北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。
それらの物資は大津港から馬車、牛車により逢坂山を越えて京都へ運ばれて行きました。
逢坂山は湧き水で絶えずぬかるみ、運搬には苦労する難所だったので、文化2年(1805)に大津から京都の
三条にかけての約3里(12キロ)に轍(わだち)を刻んだ花崗岩を2列に並べて敷き、
馬車や牛車を通りやすくしました。それは車石と呼ばれ、単線で午前は京都行き、
午後は大津行きと時間による一方通行になっていたそうです。現在、車石は取り除かれ、
大津歴史博物館や大谷町の上蝉丸神社等に一部復元されていたり、
周辺の家の庭に転がっていたりするそうです(驚)。<藤三郎紐さんのサイトとパンフレットより>
上蝉丸神社は平安時代の琵琶の名人・歌人、蝉丸をまつる3カ所の蝉丸神社のひとつです。
蝉丸は時の天皇の皇子という説もあり、目が不自由だったにもかかわらず、芸能の神様として人々に崇敬されました。近くには明治5年(1872)創業うなぎの「かねよ」さん(きんし丼が有名)もあるので、またの機会にゆっくり散策してみたいものです。うなぎも東海道を行き来する人たちが食したのでしょうか。
組紐の話に戻ります。組紐は読んで字のごとく、糸を組み上げてつくる紐のことをいいます。
藤三郎紐さんの特徴は、渋く淡い色。これは化学染料ではなく、天然の草木からとった染料で
染め上げているから。草木染めを組紐にしているのは全国でも唯一だとか。それから、紐を組む組台のひとつである内記台。江戸時代の膳所藩士の内記大膳が考案したとされ、現在は藤三郎紐さんで使用されるのみ。内記台によって組まれた帯締めは適度な伸縮性がありとても締めやすいのだそうです。

組紐の結び方もいろいろあるそうですが、これは「かのう結び」。表が「口」の字、裏が「十」の字になっていて「叶」う。お願いや夢が叶いますように。お忙しい中、お時間をいただきまして、ありがとうございました。
<滋賀のデザイン会社:願いを叶えたいスタッフN>